武将札「海道一の弓取り:今川義元」

武将札「海道一の弓取り:今川義元」

販売価格: 380円(税別)

(税込: 418円)

在庫あり
数量:

商品詳細

<商品内容>
・武将札「海道一の弓取り:今川義元」 ×1
・武将情報紙 ×1

1519年(永正16年)に生まれた。
今川家第九代当主。父・氏親、母・寿桂尼。幼名は方菊丸。
当初、氏親の嫡男には氏輝がおり、方菊丸の家督相続の可能性は無かった為、四歳頃から臨済宗の僧・太原雪斎に預けられる。

1536年(天文5年)氏輝が急死。同日に氏輝の弟・彦五郎も死亡した事により方菊丸が還俗し家督を継承した。
この時、将軍・足利義晴から「義」の一字を拝領し、今川義元と名乗る。
ここから今川家中では家督相続に端を発した内紛が起こるが、義元はこれを短期間で収め、諸悪の根源である玄広恵探(げんこうえたん)(異母兄)を自害へと追いやった。

義元は軍師として師でもある雪斎を迎え政権を執ると、1537年(天文6年)には敵対する甲斐の武田信虎と駿甲同盟を結ぶ。
だが反対に同盟関係にあった相模の北条氏綱は反発し駿河へ攻め込む等、周辺国は相容れない状況にあった。
しかし1554年(天文23年)、善徳寺にて甲斐・武田、相模・北条、駿河・今川の三者による会談で「甲相駿三国同盟」が結ばれた。
こういった動きを経て、義元は駿河、遠江、三河を有し、全盛期を迎えた。

1560年(永禄3年)に、桶狭間にて織田信長に討ち取られた。享年四二歳。


「桶狭間にて織田信長に討ち取られた人」ということからマイナスなイメージをされがちですが、実際のところ文武に優れ、教養高く、また善政を行い、民からの支持も厚い非常に優れた人物です。
特に内政面においては辣腕を振るったことは様々な史料から確認することができます。
「今川仮名目録」の追加法も制定、さらに商業保護や流通の統制、寄親寄子制度によって家臣団の結束を強化するなど優れた行政改革を行いました。朝倉宗滴による『朝倉宗滴話記』にも載っており、人物評価が非常に高かったことがうかがえます。
そんな名門今川家の義元公の武将札は、教養の高さと文化的なイメージを崩さないよう注意して製作しました。

商品仕様

武将札材質 繊維強化プラスティック(FRP)
武将札サイズ 縦25mm × 横76mm × 厚2.3mm
武将情報紙材質 光沢紙
武将情報紙サイズ 縦102mm × 横152mm(KGサイズ)